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※この記事はネタバレを含みます。
英文学のことを調べていると、「ブロンテ姉妹」というワードをよく目にします。
「嵐が丘」や「ジェーン・エア」などは、名前はよく聞いたことのある作品でしたが、一度も原作を読んだことがないままでした。今回やっと重い腰を上げて読み始めました。
まずはエミリー・ブロンテの「嵐が丘」から読みました。以下に感想を記します。
嵐が丘
何でしょうこの作品は!あまりにも異質なものに思えます。
私は小説よりも先に映画で「嵐が丘」を知ったのですが、小説の方を読んで、映画版はだいぶ分かりやすく作り変えられていたんだな、と分かりました。
映画版では「狂おしいほどの愛」のように、ヒースクリフとキャサリンの愛に焦点が置かれるものが多いように思います。愛という普遍的なテーマにすれば分かりやすいですもんね。でも原作である小説は、もっと複雑で簡単には伝わってこないものがありました。
私は小説を読んで、「狂おしいほどの愛」というよりも、「狂気の伝染」「愛し方を知らない者たち」といったイメージを抱きました。
嵐が丘に住む者たちには狂気が巣食っている。みんながみんなわがままで、考えがころころと変わり、言われたことに素直に従わない。この意地悪な雰囲気が終始続きます。厳しい自然がそうさせるのか、人間も厳しいものになっています。
物語は、スラッシュクロス屋敷を借りたロックウッド氏が、かつて嵐が丘、そしてスラッシュクロス屋敷両方で家政婦をしていたネリーから話を聞くというスタイルで進んでいきます。
ネリーはあの狂人たちの中で共に暮らしていたにも関わらず、割とまともなものの見方ができているように思えます。でもほんとのところはどうなんでしょうね?彼女だってあんな場所に住んでいたらおかしくなってしまうのでは?この物語はネリーの視点でしか分からないようになっています。他の人が語ったら、まったく違う質の物語になるのかも。
ロックウッド氏がヒースクリフやキャシーに会うシーンだけ、読者も冷静で客観的な目で彼らを見ることができるように感じました。ロックウッド氏はまだ狂気に飲み込まれていない外部の者だから。彼が早々にスラッシュクロス屋敷を去ってくれて私はホッとしました。彼も狂気の被害者になるのではと、読んでいてソワソワしました。
ここまで書いて気づいたのが、この小説って一応ロックウッド氏の目線で物語が進んでいるので、読者の心もロックウッド氏に寄り添うのが基本だと思うのですが、気づけばネリーに寄り添っている私がいました。ロックウッド氏のことはどちらかというと「ご主人様」のように見ています。だから「氏」なんてつけて呼んじゃってるんですね。ネリーに寄り添ってしまうと、私も嵐が丘の内側の人間になってしまう。ロックウッド氏の目線で見ていた方が安全なのに、気づけば読者をも狂気の渦中に引きずり込んでしまうようなパワーがあります。
さて、この物語の中心的人物はヒースクリフとキャサリンですが、私には彼らのことを語る術がありません。本当に理解ができないからです^^; 私の分かる範囲で彼らを解釈すると、孤立した場所で社交も学べず、正しい倫理を学ぶ機会もなかったため、正しい愛し方が分からなかった。お互い相手に対する強い気持ちがあるものの、それをどう発散、表現すれば良いか分からず、キャサリンは死亡。残されたヒースクリフは想いを持て余し、一番自分と身近だった感情「怒り・恨み」を用いることで、強い想いを発散させることしかできなかった。こんな感じでしょうか・・・。
しかし、本当になんでこんな物語を書いたんだろうと、読みながらずっと思っていました。
エミリーはかなりエキセントリックな性格だったのか?または姉妹間の仲が悪く、真っ黒な感情を持っていたのか?とかなり気になりました。調べてみると、厭世的ではあったようですが、姉妹間で仲が悪いという情報はありませんでした。ただエミリー自身も含め、早死にする家庭だったようで、いつも死の匂いを身近に感じていたのかもしれませんね。
エミリー・ブロンテが著した長編小説は「嵐が丘」のみのようですが、機会があれば詩なども読んでみたいと思います。


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